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SOMPO美術館開館記念展『秘蔵の東郷青児』に向けて予習しました

2020 5/20
SOMPO美術館開館記念展『秘蔵の東郷青児』に向けて予習しました

2020年7月18日から、SOMPO美術館開館記念展に設定されている東郷青児の作品展示。


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COVID-19による延期なく、予定通り開催してくれい、、、という願いを込めて記事をポスト。

開館記念展Ⅰのゴーギャン、セザンヌ、ゴッホなどの芸術を展示する企画も楽しみだけど、7月18日から9月4日開催予定の東郷青児の企画がみたい。

今日はちょっとその予習したことをまとめておきます。

目次

『秘蔵の東郷青児』を開催するSOMPO美術館って?

2019年3月1日で展示を終了し休館にはいった「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」が、4月1日からSOMPO美術館に名称を変更

SOMPOという名前が入っている通り、保険会社の損保ジャパンがかかわってる

要は安田火災保険が豊かになってきて美術館を建てて会社名変更によって運営団体や美術館名が変わっていってる感じで、この4月1日もそれを受けて名称変更がなされてるって感じですね。

歴史的にはざっとこんな感じ。

  • 1944年 東京火災海上保険株式会社・帝国海上保険株式会社・第一機罐保険株式会社の3社が合併し、安田火災海上保険株式会社が発足
  • 1976年 安田火災海上保険株式会社、財団法人安田火災美術財団を設立。東郷青児から自作約200点と東郷が収集した国内外の作品約250点の寄贈を受け「東郷青児美術館」として開設
  • 2002年 安田火災海上保険株式会社と日産火災海上保険株式会社が合併して株式会社損害保険ジャパン発足。それに伴い美術館の運営法人名を「財団法人損保ジャパン美術財団」、美術館名を「損保ジャパン東郷青児美術館」に変更
  • 2014年 日本興亜損害保険株式会社と正式に合併し、損害保険ジャパン日本興亜株式会社に商号変更。それに伴い、運営法人名を「公益財団法人損保ジャパン日本興亜美術財団」、美術館名を「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」に変更
  • 2020年 損害保険ジャパン株式会社へ商号変更。それに伴い、美術館名を「SOMPO美術館」に名称変更。また、運営法人名を「公益財団法人SOMPO美術財団」に変更。

ただ、今回の変更は、今までのただ名前が変わったという変化に留まらず、2点の大きな歴史的変化もある感じですね。

SOMPO美術館、今回の変更に存在する2点の大きな歴史的出来事

美術館が新しく建築された!

1976年の開館以来、損保ジャパン本社ビル内にあった美術館。

手狭で所蔵作品すべての常設展示ができない!!

っていうんで、新しく建てちゃいました

地上6階・地下1階延べ床面積はそれまでの1900平米から4000平米

どどんと2倍以上の広さになりましたね。

運営側として、これは大きな歴史的出来事ですな。

東郷青児の名前が美術館名称からなくなった!

1976年「東郷青児美術館」として始まり、2002年「損保ジャパン東郷青児美術館」、2014年「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」と名称が変わっていく中で残され続けていた「東郷青児」の名前がなくなっていますね。

これ、会議とかで揉めたのかなぁ、どうなのかなぁ。

上記の通り、はじまりは「東郷青児美術館」という名称だし、東郷青児から自作約200点と東郷が収集した国内外の作品約250点の寄贈を受けて始まった美術館なわけで。

でも、東郷青児の芸術活動というか作品活動というか、そうしたところによれば、別に矛盾はないんじゃないかとも思うな。

彼は芸術を大衆化することに寄与した人ともいえるわけで。

どうしても名称に加えることで印象づいてしまう東郷青児縛りを外すことで、より幅広い美術館としての可能性を模索する方向に進むのだとしたら、それはそれでとも思ってみたり。

僕なりに東郷青児をかんがえる

東郷青児に対しては、いろいろと理解や評価が分かれるみたいですね。

東郷青児は芸術家か?彼の作品は芸術といってよいのか?

みたいな議論があるみたい。読み進めていくと、めっちゃ、なるほどーーー!!!と思った。調べていく間、おもしろかったぁ。

調べを進めていく中でよく出会したのは、女性遍歴がひどい!とか二科会のドン!とかいう情報で、目立つ、わかりやすいインパクトのあるものを取り上げて、東郷青児の人柄と、一方で静かな世界観の絵画作品を対比して紹介する論調。

それはそれで面白かった。

けど、東郷青児の40歳くらいまでを全体的に見渡すと、とても人間らしさがあって個人的に妄想できたことがあるので、記録として書いておく

不安、孤独、葛藤による彷徨いの表出が女性遍歴に含まれているんじゃないかなぁ

1920年、23歳の年に結婚してるんだけど、その翌年から約7年間フランスに留学してて。

途中、奥さんを呼び寄せたみたいだけど、1923年に関東大震災があって仕送りが少なくなったのもあって、奥さんを日本に帰して、一人のときも多かったみたい。

で、1928年に日本に帰国して、1929年2月既婚のまま中村修子と結婚披露宴を挙げたり、その翌月の3月に愛人の西崎盈子(みつこ)とメスで頸動脈を切ってガス自殺をはかったり、その後自殺未遂事件の取材にきた宇野千代と取材にきたその日から同棲を始めたり。

もうね、破天荒すぎる。わがまますぎる。

って思いながら、でも、なんでそんなだったのかなぁ、、って思ったら、ああ、彷徨っていたのかなぁ、、、と。人生だとか、芸術に対する自分のあり方とか、そうした様々なことに。

単なる、東郷は女好きで、破天荒とか、精神異常者だとかそんなのとは違うんじゃないか

1933年、36歳のときに正式に離婚。同年1929年に始めた宇野千代との同棲も解消。1934年に自殺未遂をしたみつこと結婚してるんですね。

それからも多少の女性遍歴はあるのかもしれないけど、調べてもこの頃のような「わお、破天荒!」みたいなのはなかったし、むしろ、みつこと結婚してから、作画も安定し、人生の方向性も固まって歩んでいった印象が強い

【妄想】東郷青児の葛藤はこんなだったのかなぁ

17歳の頃、美人画で有名な当時30歳の竹久夢二に拾われて、夢二の奥さんと関係があった(なかったみたいな情報もありましたけど)ことで夢二との関係が終わる。

♪ゆうやーけ、こやけーえーのー あかとーんーぼーーー♪で有名な山田耕筰に拾われて個展を開く中、18歳で有島生馬に見出されて芸術活動がスタート。

19歳で二科展に出展して二科賞を受賞して。

24歳でフランスに留学する中でいろいろ吸収して日本に帰ってきて。

留学を開始したのが1921年。関東大震災が1923年。帰国したのは1928年。

震災後の景気回復も中途で芸術なんて言ってる場合じゃないみたいな空気もあったと思うし、留学中に様々な芸術の手法やイズムに触れる中で、その当時の日本において、自分がいかにあるか、、、、みたいなところで根本的には定まらずにいたところがあるんだろうなぁ、、、と。

それとこの女性遍歴がどう関係あるのか?といわれると表現は難しいんだけど、やっぱさ、こう、そうした定まらない心の寂しさとか不安とか、そうしたものを女性が埋めてくれるところってあると思うんだよな。恋って不思議なもので、すると強くなれるじゃん。心安らかにもなるじゃん。麻薬みたいな部分があって。

いやいや、そもそも既婚者だろ?社会的責任あるだろ?奥さんの気持ち考えろよ?とかいう道徳的観念は、わかる。けど、それはおそらく自己の世界に陶酔している人には全く通用しない価値観だからなぁ。

「なんて、自己中心的な人間!なんてわがまま!」って嫌悪を抱きながら批判をする人はいるだろうけど、それはその通りなんですよね。自分のあり方を考えていることに端を発しているから。まさにその通り。善悪の評価でなく事実として。

1933年36歳のときに、正式に離婚もして、1929年に始めた宇野千代との同棲も解消して、1934年に自殺未遂をしたみつこと結婚したあたりに、東郷青児のなかで何がみえたんだろう、、、ってのが個人的に気になります。

THE・芸術家とデザイナーのハイブリッドって見方はいかがでしょう

みつこと結婚してから作風が固まったと言われてて、美人画を多く残した東郷青児は、同時に雑誌の表紙だったり、洋菓子店の包装紙だったり、デパートの壁面へのデザインだったり、とにかくいろんなものに自分の世界を刻み込んでいくわけですよね。

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ここがいわゆる芸術家とちょっと違うなぁ、と思うんです。

ピカソとかゴッホとか、そうした THE・芸術家 と違う。ここら辺は、どちらかといえば初めて自分を見出してくれた竹久夢二の動きに近いわけですよね。

竹久夢二なんかは「大正の浮世絵師」ってよばれてたくらい、THE・芸術家というより大衆よりだった。

かといって、竹久夢二と違うのは、東郷青児はフランスに渡り美術学校に通ったり、ピカソなんかとも交流があったり、二科会にも所属していたり、いわゆる芸術界にも通じている。しまいには、二科会のドンなんていわれる立場になっちゃうわけだし。

なんていうんだろう、こういうハイブリッドな感じが東郷青児にはあるんだぁ、、、っていうのがこの人の面白いところだなぁ、、っていう感想

フランスでいろんな出会いもあったんだろうなぁ。過去の人も含め THE・芸術家 にいっぱい触れて。その芸術家の人生や作品、技術などに触れて、自問自答をいっぱいしたんだろうなぁ。

数年に一点残すような芸術家、存命中は評価されることなく苦しく波乱万丈な人生を送りながら死を遂げ、のちに評価される芸術家なんかの生き様をみたときに「う、、俺、この道を行く気なのか?」みたいに思ったりもしたのかなぁ、、とか。

そうした孤高の芸術家みたいなのってかっこいいけれど、果たしてそれが自分の肌に合うのだろうかとか、自分は芸術を通じて何をしたいのかとか、自分の使命は何なのかとか、そんなことをいろいろと考えたんじゃなかろうか。もちろん、時代背景も踏まえながら。

その結果たどり着いたスタイルがそれで、今でいうデザイナーさんに近いのかな。西洋のテイストを織り交ぜながら大衆にその世界を浸透させていくような。それでいて、芸術と一般の人の世界を近づけるような。そんな使命を果たした人なのかなぁ、、、

なんて勝手な妄想を抱きながら7月開催を楽しみに待とうと思います。

SOMPO美術館さん、準備等大変でしょうが、頑張ってください!楽しみにしていますー!

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