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【錯覚じゃない?】「歳とったなぁ」が口癖な人【老化について】

2020 5/20
【錯覚じゃない?】「歳とったなぁ」が口癖な人【老化について】

僕が鈍感なのか、周囲が敏感なのか。それとも思い込みの問題なのか。

僕の周りで、35歳をすぎたあたりから「いやー、もう歳だから」と口にする人が増えてきた。

確かに、昔の写真と比べたら肌艶をみて歳を重ねたことを感じたり、リアルに白髪が増えたりというのはある。

ともってたら、昨年末にNewsweekからこんな発信があって興味深い。

確かに「老化」というのは日々進んでいる。それは間違いのないことだ。

しかし、それを「だから◯◯だ」という文脈に安易につなげることは本当に良いのだろうか。そこに因果関係は本当にあるのだろうか。それを安易に持ち出すことは、我々の可能性を自ら狭めることになりはしないか。

今日はちょっとそれを考えてみたい。

目次

「老化」を感じるのはどういうときか?

「老化」を感じる要素は、大きく分けて認知能力的側面と体力的側面があるんじゃないかと思う。それぞれの能力に対する感じ方の問題。

認知的側面というのは、脳機能が大きく影響しているのだろうし、体力的側面というのは、筋肉量や神経伝達速度等が影響しているのだろう。

これらに劣化が生じると、それぞれの能力が低下し、できていたことができなくなったり、不調を感じたりして、かつてと比べて「老いたな」と感じるのだろう。

しかし、果たしてこの認知能力と体力の低下が、すべて加齢による生物学的老化に起因するのかとなると僕は甚だ疑問だ。

科学的調査結果で示されているのは、成長は20代で止まり、あとは機能低下の一途を辿るということだ。

それはそうだろう。

ただ、問題はその機能の低下が、全て加齢によるものなのか。あるいは「だから、◯◯だ」という文脈に繋げるほどのものなのかということだ。

BBCニュース – 老化を左右するのは実年齢より「主観年齢」

自分のことを考えてみたら40代に入って白髪は増えたし肌のハリもなくなった。周りを見渡しても父親や母親は年を追うごとに老けていくし、友人も数年ぶりに会うと老けたなぁ、と思う。

しかし、一方で、例えば「懐かしの歌謡曲」みたいな番組で、当時20歳だとか30歳だとかいう年齢の歌手をみて「え?これで30歳?」って思うときもある。明らかに、今自分の周りにいる30歳より老けてみえる人も多い。

あるいは今という時代に限ってみたって、同じ40歳でも30代に見える人もいれば、40歳にしては老けていやしないか、と思う人もいる。

そんなことを思っていたら、こんな記事にでくわした。

死の危険を含む重要な健康問題が、主観年齢によって予測できることが、複数の研究から判明している。現実問題として、あなたの歳は「自分で感じている年齢」そのもの。自分は年寄りだと思った人が年寄りなのだ。

この興味深い結果を受けて、多くの研究者が個人の老化体験を形成するさまざまな生物学的、精神的、社会学的要因を突き止め、より長く健康的に生きるための応用方法を探している。

要は、自分のことを主観的に若いとか老けたとか思うことは、その人の若さや老いに影響を及ぼすのではないか、ということが書かれている。

これこれ。この発想に近いかもしれない。

機能を使うか使わないかで変わるのではないか?

僕が思うのは、こういう思い込みもそうだけど、食生活や睡眠や運動といった生活習慣、仕事環境や趣味趣向といった文化的側面なども大きく影響してるんじゃないかってこと。

周りを見ると、運動をしている50代より全くしていない30代は身体的に衰えていることが多い。年齢を重ねていても、運動をしている人のほうが瞬発力も持久力もあるなと感じる。

自分自身のこれまでも振り返ってみる。

高校時代までは部活動などで体を動かしていた。社会人になり運動をする機会が減った。体力はどんどん落ちていって疲れやすくなったなと30代に入って思うようになった。肩こり、目の疲れを感じるようになった。40代も近くなった頃から基礎代謝量が減ったせいか、脂肪がつきはじめた。それをきっかけに「これはまずい」と感じて筋トレやストレッチをしだした。そんな今は、明らかに5年前10年前より体は引き締まり体力もついたと思う。肩こりも無くなったし、階段を上がるのにも息が上がらなくなった。

自分より年上の50代60代の人でも、好奇心を持って様々なことにチャレンジをし嬉々としている姿を見ると自分よりエネルギーがあってアクティブで体力があるなと思う。

物事を吸収する力だって、思考力だって同様だ。

自分より年齢的に若い20代30代の人と話していても、物事に無関心な性格の人、普段からものを考えない人なんかと話をしていると、認知能力や論理的思考力が足りないなーと思うことがある。一方で、50代60代、ときに70代の人でも、理解も習得も成果を出すのが早い人もいる。

つまり、何がいいたいのかというと、これらは実はその人の生活によるのではないかと。

もっと噛み砕けば、脳も含めた身体をいかに使っているかということ。

何度もいうが生物学的な老いは明らかに存在する。

しかし、我々が日常で使う「若さ」とか「老い」という言葉の定義は、分かりやすい「加齢」に目が行きがちである一方、実際は総合値で割り出されるのではないか。

あるいは「若い」とか「老い」というものは、実質「機能しているかどうか」であったり「劣化したかどうか」を示しているだけではないか。

そう考えたら、安易に加齢による生物学的老化のせいにして、物事を遠ざけたり、起こる状況に安穏とすることは、それこそ本当の「老い」を加速させることになるのではないか、と思う。

厳しい言い方をすれば「老いたから」は、自分を納得させるための言い訳にすぎないんじゃないか、とすら思う。

心理的作用によっても変わるのではないか?

生物学的に確かに10代より40代は、記憶力が落ちていると思う。

しかし、だ。

僕は40代の今になったって、出来事も映画も音楽も、感動した出来事は、消すことのできない鮮烈な記憶として残ることがある。

曲の歌詞。確かに幼少期や10代の頃に触れた曲は今でもそらんじることができる。日本昔話の歌なんてスラスラ出てくる。一方、20代を過ぎてからの出会った曲の歌詞。これはなかなかすっと出てくるものはない。ただ、中には稀に感動するような曲にでくわして、気がついたらその歌詞が自分に定着している、なんていう経験はこの年代になってもある。

これはひょっとしたら、記憶力の問題もあるが、感動の問題でもあるかもしれない。

年を重ねていくにつれ、様々な経験を積み、多少のことでは驚かなくなる。心が動きにくくなる。しかし、幼少期や10代は、初めての経験も多い。それに戸惑い悩むことも、心躍り感動することも鮮烈なんじゃないか。それが記憶に残るか残らないかを左右している、記憶のメカニズムにそういう要素だってあるんじゃないかと思う。

僕は小学生の頃から「記憶する」という行動が苦手だった。忘れ物もよくした。それは今も変わっていない。小学校や中学校時代の友達と旧交を温めようと飲み会を開いても、家族旅行の思い出話をしても、話題についていけないことが多い。「んー、俺、いたよな、そこに」にと思うほど、その出来事がまったく記憶にないのだ。

そして思う。

「ああ、でも、俺、今も昔もその場限りのやり取りには割と無関心な人間で、どうでもいいと思っているから記憶に残ってないんだな」って。

じゃあ、この衰えたという感覚はなんなんだ?

しかし、実感として、疲れやすくもなっているし、持久力もなくなっているという人もいるだろうと思う。自分もそう感じる時はある。

けれど、その疲れやすくなっているのも、持久力がなくなっているのも、運動しないことによる筋力の衰えから来るものだったとしたら?あるいは、精神的ストレスによる気力の問題だったとしたら?

考えてみたら、小学校の頃は常に体を動かして遊んでいたし、中学校時代は水泳をやったり部活をやったりして体を鍛えた。そうして体を鍛えていたから、体力があったっていうのもあるんじゃないか。繰り返すが、50代でもジムに通って体を鍛えている人を見ると、明らかに20代の頃の自分よりこの人は体力があるよなと思う。

物覚えが悪くなったというけれど、それだって10代の頃の学習量と今を比べたときに、果たしてどれだけ脳の機能を使っているか。

仕事上で身につけていく能力は習得値であって、勉強で身につけていく学習値とは脳の使う領域が違うと言われてる。働きながら脳を機能させているといっても、いわゆる「物覚え」で使う脳の領域とは違ったりする。

つまり、使わなければ機能が劣っていくのは当然なんじゃないか、と僕は思う。

その劣化は不可逆的なものか?

そして、衰えてしまったものは不可逆的なものかといわれると決してそうじゃないんじゃないか。

20代をすぎたら成長はとまり、あとは老いていくだけ。それは加齢による生物学的老化の観点からすればそうだろう。

しかし、必ずしも劣化したものが再生されることがないとは言い切れない。

もし、それが不可逆的なものだとしたら、30代に入って基礎代謝が減り脂肪が着き始めたら終わりじゃないか。世の中にはそこから鍛え始め立派な引き締まった体を手に入れている人はたくさんいる。70代になって骨折をして筋力が落ちてしまってもリハビリで回復する人だっている。

劣化していくだけのことを日常的にしている、という可能性がある

したくもない仕事をし続け、上司や同僚から小言もいわれ、日中は嫌な思いをして我慢しているのだからと、夜は欲望のままに脂肪分たっぷりな高カロリー食品を口にし、疲れたからといって運動もせず、浴びるように酒を飲んで、泥のように眠る。

そんな生活を送ってて、疲れないわけがないじゃないか。体が劣化していくのは当然だと思う。

若い頃それでいけてたのは、ひょっとしたら、若かったからなのではなく、その積み重ねが浅かったから、なのかもしれない。老いたから耐えられなくなったのではなく、一定量が蓄積されたことで劣化に限界がきたという見方もできるんじゃないかと思う。

10代であっても、運動もせず高カロリー食品ばかり摂取している子どもは、肥満体質で体力がなくしんどそうだ。夜な夜なくらいところで本を読んでる子なんかはすぐに視力もおちる。それを老いとはいわない。

人はちょっと加齢による生物学的老いに惑わされすぎているのかもしれないと思う。

ビリー・シーンのベースプレイから勇気をもらう

この人は僕の好きなベーシストでビリー・シーンという人なんだけど、年齢は67歳。

67歳でこれだけのベースが弾ける。

じゃぁ、自分はどうかといわれると、こんなに指が滑らかに動くことはできない。速くも弾けない。そして、実はこれだけ速くベース弾くには相当の筋力が必要だったりする。

67歳の人ができてて、40代の自分が「もう年老いたからできない」なんて言ってちゃもったいないな、って思う。

ビリー・シーン自体で比較しても、確かに加齢による劣化はあるのだろうが、下の二つの動画を見比べてもらっても、「もう年老いたからだめだ」なんていえない。

1992年のビリーシーンの演奏。当時39歳。

2013年のビリーシーンの演奏。当時60歳。

これはビリーシーンという人の「サンプル1」だけど、こういうことは至る所に存在すると思う。

その逆もまた然り。若くして「俺はダメだ」といって劣化している人も多くいる。

それに気づいて「これじゃダメだ」と思って10年前より機能的に高くなっている人もいる。

60歳になっても、70歳になっても、いつまでも若い気でいて、20代30代の若者を押しのけて「俺が俺が」みたいになっている人をみていると「イタイなぁ」と思うことがあるかもしれないけれど、僕は同時にそういう人を見ていて微笑ましくも思うし勇気も出る。ああ、この年になっても、こうして輝けるんだなって。その背中を追いたくなる。その人の「俺が俺が」みたいな不快に思う部分を「老害」とか表現されるのかもしれないけど、実は老いとは関係ない。それは、単に「でしゃばり」「目立ちたがり」「自己承認欲求が強烈」というその人の性格の問題だ。

「おまえ、自分がただ、いつまでも若いって思いたいだけだろ?」と言われたらそうかもしれない。

「おまえ、自分がそうだからって仲間が欲しいだけだろ?」と言われたらそうかもしれない。

けど、それ以上に思うのは「もったいないよ!」ってこと。大きなお世話だけど。

人間には未知な部分がたくさんあって、可能性が秘められている。

「歳とったなぁ、、、」と感じて遠ざけて劣化のスパイラルに陥るくらいだったら、いつまでもキラキラしていて欲しいなと思う。死ぬまで自分の持てる力で、好奇心を持って、いろんなことに挑戦して若くいて欲しいと思う。

そして、それは、きっと日本社会にとっても、世界にとってもいいことに繋がるんだと思うんだよなぁ。QOLが上がるとか、幸福度が上がるとか。

ここまで書いたけど、これはあくまで僕の仮説。仮説といえば聞こえはいいけど、戯言だよね。

どこかでそんなことを研究してくれている大学の先生とかいないのかなぁ。

「ほらね!」っていいたい。

DaiGoさんとかパレオさんとかあたり、そういう研究をしている先生を知ってて、動画にしてくれたりしないかしら。

とはいえね、、、毎日頑張って疲れて帰ってきたら「俺も歳とったなぁ」って自分を労いたくもなるよね。そうやって、言い訳の一つもいいたくなるよね。

うん、今日もお疲れ様です。

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